2016年2月17日水曜日

英語教育 第6回


大学での英語教育は特に語るべのきものはなかった。有名な作家の小説を通読することのみであったと思う。当時の学生の英語(読解)力は大学入学試験受験時がピークで、入学後にESSEnglish  speaking society)といったクラブ活動に参加していた学生を除いては、皆低下の一途を辿っていった。卒論のabstractを英語で書くのに皆苦労していた程である。

以上が私が経験した昭和30年代から40年代にかけての日本の学校における英語教育の平均的な実情である。いわゆる団塊の世代に属する私は、まさに当時の平均的な英語教育環境に身を置き、英語を「話す言葉」としての能力は極めて低いものであった。

ところが社会人になってから、状況は 一変した。一番の「困りごと」は欧米のcustomer(顧客)が会社にやってきて、工場見学や会社概要や品質計画の説明、要求品質の折衝、購買契約などについて、会社の上司とともに担当したのだが、困ったことに某国立有名大学を出たその上司は私以上に英語の「聞く」「話す」ことが苦手で、何となく私に任された恰好になった。私も決してスムーズなコミュニケーション力があったわけではなく、それこそ中学、高校時代にブラウン管を通じて見て聞いた「NHKテレビ英語会話」以来であったから、四苦八苦の思いで欧米からのcustomer対応に取り組まされた。まさに泳げない子をいきなりプールに突き落とすという荒々しいものであった。

Japan as no. one時代の到来で、私の会社が生産していた半導体デバイスは世界第二位の産出量となり、国内の他社と併せれば日本は世界第一位の産出量を誇るようになった。こうなるともう大変で、数多くの欧米からの顧客が日本の工場における品質管理の秘密を探ろうと押し寄せてきた。

何十回と同様のことを繰り返すうちに、ルーチン的な説明ややり取りを英語で行うことに慣れてはきたが、それは決められた軌道を走る電車のようなもので、軌道から外れて例えば宴席などで世の中一般のことについて談笑するのは相変わらず苦労した。

このころから会社も社員の英語力開発の重要性に気付き始め、エンジニアにTOEICの受験を義務付けたりその成績を、社員の成績査定につながる「自己申告表」に記入させることが定着した。上司は部下のTOEICの得点レベルを把握することが求められ、その上司自身が英語力を問われるようになった。1970年から1980年代にかけての事である。

このころ、日本人の英語力はアジア諸国の中では最低であるとの報道がなされ、あの北の将軍様のDPRKよりも低いといわれた時には、さすがに中学、高校、大学と曲がりなりにも延べ10年にも及ぶ英語教育を受けてきた結果がこれであるのかと、愕然としたというよりやっぱりそうかとの思いだった。

寸心児

 
                     アルプス遠景 春近し

2016年2月10日水曜日

2016年2月7日日曜日

小学校の英語教育④

中学校に進級した私は、そこで初めて本格的な「英語」に出会った。確か教科書は(開隆社出版だったかな)「new horizon jack and betty(だったかな)